傍流雑記帳

「本流」をはずれたら、気づいたことがたくさんあった。

本日の映画「新聞記者」

今日は久々に映画を観に行ってきました。

前々から気になっていた「新聞記者」です。

以前、ネットのレビューを見てみたら、概ね高評価でしたが、いわゆるネトウヨの方々が血相を変えて非難しているので(実際に顔は見えませんが・・・)、どんな内容かな、と思っていました。

 

大学新設をめぐる極秘情報を追う新聞記者(シム・ウンギョン)に、内閣情報調査室若手エリート官僚(松坂桃季)が情報をリークして・・・というようなストーリーで、昨今の日本では珍しい政治サスペンスです。

 

安倍政権を揶揄するようなセリフが多く、特に松坂くんの上司が放つ「この国の民主主義は形だけでいいんだ」という言葉は、まさに日本の現状を言い当てていると思います。丹念に描かれる隠蔽体質も、さもありなんという感じです。

 

松本清張を彷彿とさせるような作品ですが、原作者は、東京新聞の記者をしている方だそうで、たぶん実体験に基づいている部分もかなりあるのではないかと思います。

 

とても見応えがある映画で、ネトウヨが怒るのももっとも、という内容でしたが、某シネコンは、安倍政権に忖度して、この作品の上映を見送ったという噂も聞きます。もしそれが真実なら、実に嘆かわしいことですし、ゴジラがいる歌舞伎町の映画館にはもう行きたくありません。

 

お金を払っても損はない映画だと思いますので、良かったら皆さんも是非どうぞ! 

 

 

 

「老後2000万円問題」が長引いている件

参議院選挙も近づいてきましたが、金融庁の報告書に端を発した「老後2000万円問題」は、マスコミでも、さかんに報道されており、収束する気配がありません。

これをきっかけに、自民党が選挙で大敗なんてことになれば面白いのですが、そうはならないでしょう、きっと。

 

金融庁の報告書は、あくまでも「平均」なので、個人の資産状況によってずいぶん事情が変わってくるでしょうし、そもそも、その人が何歳まで生きるかというのは、神様にしか分からないので、この種の話は前提条件の設定が難しいですね。

だけど、大半の国民は、「やっぱり老後にはそのくらい要りそうだ」となんとなく感じているような気がします。

 

もともと今の年金制度が作られた時代には、いまのような少子高齢化は想定していなかったはずで、「どうせリタイア後の余生はあまり長くないだろうし、収入が足りない分は子供に面倒みてもらいなさい」という前提があったのではないかと思います。

 

しかし、今は退職後、30年以上生きる人はたくさんいますし、その一方、子供がいない、もしくは一人しかいないというケースも多いでしょう。

たとえば、一人っ子同士が結婚した場合、夫婦2人で双方の老親計4人のケアをしなければならないわけで、それが数十年続くとなると、かなりの負担となる可能性があります。

 

政府は、「年金は100年安心」と言って憚りませんが、彼らの言う「安心」は、「安心して老後を生きられる」という意味ではなく、「どんなに支給額を減らしても、年金制度を維持します」という程度の意味でしかありません。みなさん、だまされないように!

最近は、高齢者の「活用」も、盛んに議論され、「死ぬまで働け」と言わんばかりの勢いですが、80代、90代でバリバリ働ける人は少数派でしょう。

 

私の父は、75歳で認知症を患い、その後15年間、老人ホームでお世話になりました。

毎月の請求額(家賃+食費+介護費用等)は、だいたい月額23万~24万円だったので、総額4,000万円以上、支払ったことになります。

父は、現役時代に自分の会社を倒産させており、蓄えはほとんどなかったのですが、幸い、年金を月額約25万円もらえていたので、なんとかやりくり出来ました。でも、実際には、これだけもらえる人は、あまりいないようです。

 

年金定期便によると、私が将来もらえる年金は現状で月額約12万円らしいですが、そうなると、父と同じ状況に陥った場合、老人ホームの費用だけで2000万円用意しなければならないことになります。

 

月額12万円では、東京で普通に家賃を払って暮らしていくのも難しいと思いますが、年金額がそれ以下の人もたくさんいます。特に、自営業で国民年金しかもらえない人は満額でも月額約6万5000円ですから、大変です。

 

私の行きつけの定食屋さんは、70代の老夫婦が営んでいますが、どんなに体がきつくても、経済的な理由で引退できないそうです。特に夏の暑い日などは、重い鍋を振る様子が辛そうで、お客の私から見ていても、いまにも倒れるのではないかと心配になります。

 

体力があって、やりがいのある仕事ができる人は何歳まででも頑張ってもらえばいいですが、そうでない人が安心してリタイアできないというのは、先進国とは言えないのではないかと思います。

 

金融庁としては「老後はお金がかかります。みなさん、投資で自助努力を!」という方向へ誘導したかったようですが、金融リタラシーがない人が、銀行や証券会社にノコノコ出かけて行ったところで、「ネギをしょった鴨」になるのが落ちです。

比較的低コスト・低リスクの良心的な投資信託もありますが、そういった商品は当然リターンもそれなりですので、それで「2000万円」を作るのはちょっと厳しいかもしれません。

 

となると、解決策は、

①大増税で年金、社会保障の財源を確保する。

②移民を積極的に受け入れて、人口問題を解決する。

という二択になります。

 

①を選択した場合、それで「将来の安心」が担保されるのであれば悪くはないような気がします。実際、社会保障が充実したヨーロッパの国々では、消費税が20%を超えるところもあります。

その財源で、たとえば、現行の年金制度を一旦リセットして、65歳以上の人にベーシックインカムを適用するなんていうのもありかもしれません。

でも、日本では、利権大好きな政治家、官僚や、前例主義に凝り固まった行政に大きな改革を期待するのは難しいでしょう。

 

②についても、なにかと問題はありそうですが、「とにかく人口問題を解決する」という点では、合理的な選択だと思います。

日本のような賦課方式の公的年金の場合、「高齢者が増えて現役世代が減る」というのは、「年金をもらう人が増えて、その財源の担い手は減る」ということですから、これはもう致命的です。

しかし、今から少子化対策をあれこれ考えたところで、生まれた子供が社会人になるまでには20年前後かかるわけですから、もう手遅れです。

そうすると、残る選択肢は移民の受け入れ以外にないです。

この問題についても、いろいろと思うところはあるのですが、それについては、また改めて書きたいと思います。

 

 

不幸の増殖

川崎市で悲惨な事件が起きてしまいました。

犯人が死亡しているので動機は分かりませんが、「上級国民」の子女が通う学校が狙われたという点で、池田小事件を思い出します。

もし、同じ動機だとすれば、それは「社会への報復」ということになるのでしょうか。

 

2015年の新幹線放火事件、2016年の杉並サンバカーニバル火炎瓶事件などでも、事件直後に犯人が自死していますが、これらの事件も、社会に対する憤りが引き起こした犯罪ではないかと推察されます。

 

日本は、諸外国に比べて、比較的貧富の差が小さいと言われています。

実際、餓死する人は極めて稀ですし、スラム街も見かけなくなりました。

しかし、「みんな横並びで、周りと一緒であること」が重視される日本の社会では、一度レールをはずれると社会から疎外され、「相対的貧困」に陥ってしまうケースが非常に多いのが実情です。

 

その典型的な例が、就職氷河期に社会人となり、不安定な人生を歩まざるをえなくなった人たちです。これは、そもそも「新卒一括採用」という、きわめて不合理な雇用慣習によるものですが、学校を卒業した年の景気がその人の一生を左右するなんて、ほんとにおかしな話です。

 

最近になって、政府が彼らの「就職支援」に乗り出したそうですが、もう40歳前後になっている人を新たに「訓練」して企業に採用を促したところで、ブラック企業で都合よく使い捨てされるのが関の山でしょう。

人手不足と高齢化対策の一環として、どこかのお役人が考えたことなんでしょうが、「10年遅いんだよ!」といったところでしょうか。

 

今回の事件を受けて、「引きこもりを社会復帰させる施策」とやらも検討するそうですが、なんだか、また的外れなことをやらかしそうな気がします。

 

そして、「下流老人問題」も深刻です。年金だけではとても暮らしていけない人はたくさんいますし、現役時代は順調だった人も、ちょっとした事がきっかけで、下流老人に転落してしまうのですから、大変です。今後、超高齢化社会を迎えて、生活に困窮する老人も急増するでしょう。

 

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

 

 

日本は、個人の幸福よりも企業の経済活動が優先される国ですから、これまで国民はよく「調教」され、強く自己主張する人は少数派でした。

しかし、日本経済がじり貧となる中で、従来の「定番コース」からはじき飛ばされて、経済的にも精神的にも行き詰った人が激増すれば、自暴自棄になって自爆テロ的な犯罪にはしる人が出てきても不思議はありません。「敗者の反乱」です。

これは、社会全体の構造的な問題で、「セキュリティの強化」というような対策では追いつきません。

 

今回のような不幸な事件が、今後、増えるのではないかと危惧しています。

すみません、「令和」いらないんですけど・・・。

日付が変わって、もう昨日となってしまいましたが、5月1日は新しい元号の第1日目でした。

 

11時頃に起きて、テレビをつけてみたら各局「令和」一色。

天皇元号もいらないと思っている私としては興味がないので、「こんな時、テレ東だけは、いつもの通り、独自路線を貫いてくれるはず」と思っていたら、なんと特番を組んでいてガッカリでした。

 

テレビだけではなく、国をあげてのお祭騒ぎには、げんなりさせられます。

閉塞感が漂う中、新しい時代を迎えて状況を打開したいというのも分からなくはありませんが、少子高齢化や国際競争力の低下、財政赤字の拡大といった構造的な問題を解決しなければ、なにも変わりません。

この「祝賀ムード」も、アベノミクスのメッキが剥がれかけてあせっている政府の目くらまし作戦かもしれません。ごまかされないようにしましょうね。

 

元号が発表されたとき、私はインドに滞在中で、CNNなどのニュースを見ていたのですが、海外でも日本の改元への関心は意外と高いようで、何度も報道されていました。「令和」の「令」は、order または command を、「和」は peace を意味するという解説でした。

なんとなく「命令におとなしく従い、和を乱すな」と言われているようで、強行採決大好きな安倍政権らしい選択だなと思いました。

もっとも発案者(とされている人)によると、これは万葉集から取った言葉で、「令」は「うるわしい」という意味だそうですが、現代の感覚ではちょっと無理があるような気がします。

 

話は変わりますが、4月の28日、29日の2日間、代々木公園で開かれた「Rainbow Pride」に行ってきました。毎年恒例となっている性的マイノリティのイベントです。

まず、ものすごい人出でびっくり。パレードの参加者だけで1万人を超えたそうで、イケメンもたくさんいて、なかなか楽しかったです。

スポンサーとして出展している企業もたくさんありましたが、具体的にLGBT向けの商品、サービスをきちんと提案できているところは少なかったように思います。

社内での取り組みも、「一応、セミナーとかやってます」といった程度のものがほとんどで、残念な内容でした。

「令和の大騒ぎ」と同じで、とりあえずブームに乗っておこうといったところでしょうか。

 

自治体によってはパートナーシップ認定制度なども設けられ、ひと昔前と比べれば性的マイノリティに対する理解も深まったようにも見えますが、ヨーロッパの国々や台湾などで同性婚が合法化されているのに比べると、まだまだ遅れていると思います。

 最近、同性婚の実現に向けて提訴に踏み切った人たちもいるようですが、「伝統的なイエのあり方」にこだわり、夫婦別姓さえ認められないこの国で、彼らが勝訴する可能性はかなり低いでしょう。

 

こういった強固な保守性は、実は、皇室のあり方と同根のような気がしています。「伝統の呪縛にとらわれて個人としての幸福の追求が認められない」という点では、皇室の方々もとてもお気の毒だと思います。

 

政府は、口先では「ダイバーシティ」を唱えながら、実際には、文科省教科書検定で同性愛に関する解説を削除させるなど、時代に逆行するようなことを行っているのが実情です。

 

というわけで、「新時代」になっても、保守層に支えられた現政権が続く限り、LGBTに幸せは来ないと思う今日この頃です。

 

 

 

「平成の終わり」(笑)に思うこと

前回のブログから、ずいぶん間があいてしまいました。

実は、10月に高等遊民生活にピリオドを打ち、日本語教師として復帰したら、超多忙で貧乏暇なし状態に。いや~、忙しかった。

  

やっと冬休みに入って暇になったので、テレビでも見ようかなと思っても、なにかにつけて「平成最後の・・・」連発で、じつに鬱陶しい。

前回も元号の不合理について書いたけど、改元して何かが変わるかと言ったら、基本的に何も変わらないんですよね。ただ「代替わり」の皇室行事に莫大な税金が投入され、いろんな手間が増えるだけのこと。

 

そういえば「昭和の終わり」には何をしていただろうと思い出してみると、当時、同棲していたパートナーとタイのプーケットに長期滞在していたのでした。

昭和天皇が危篤で、皇居前に若い人達も大勢集まって治癒を祈っているという記事を現地紙で読み、ちょっと意外に感じたのを覚えています。天皇を崇拝しているのは比較的年齢が高い層で、若い人はそれほどではないだろうと思ったからです。

タイは、戦時中、日本軍の被害を受けなかった数少ないアジアの国の一つで、皇室同士の付き合いも深いので、報道も好意的だったけど、他の国では論調が違っていたかもしれません。

 

戦後、連合国やアジア諸国昭和天皇に対する見解は「当然、戦争責任あり」というものでしたが、GHQ司令官のマッカーサーは、天皇の求心力を日本の統治に利用するために、その責任を不問としてしまいました。

私自身は、「統帥権を持って軍の頂点に君臨していた以上、天皇に戦争責任はある」と考えています。特に、負けることがかなり早い時期に分かっていたにもかかわらず、終戦の決断をずるずると引き伸ばした罪は大きいと思います。

遅くても、東京大空襲沖縄戦があった1945年前半には勝敗が明らかで、その時点でもし降伏していれば、原爆投下は免れることが出来たわけです。

 

「旧体制の総括」をきちんとしなかったという点で、このマッカーサーの判断は間違いだったと言わざるを得ません。

いまだに教育現場などでトラブルが尽きない「君が代・日の丸問題」も、原点はここにあったのだと思います。

結果として天皇制は存続し、それとともに、日本社会のヒエラルキーも温存され、日本人の集団主義的な気質も受け継がれてしまった。軍国主義」が「資本主義」に置き換わっただけで、きわめて保守的かつ排他的なメンタリティは不変というわけです。

戦犯となった政府要人は、いつの間にか表舞台に舞い戻り、世襲によりその精神は今も受け継がれています。また、戦争を支えた財閥も、一旦解体されはしたものの、結局、息を吹き返しました。

もし、天皇制が廃止されていたら、社畜の一致団結に支えられた戦後の高度経済成長はなかったかもしれないけど、たぶん日本社会はここまでガラパゴス化しなかったし、近隣諸国との関係も良好になっていたかもしれませんね。

 

蛇足ですが、以前、国立の某大型児童館施設に勤めていた頃、定期的に皇族が来館しており、そのたびに皇宮警察が下見に来て、小言を言われるのにはげんなりさせられました。

とにかく、皇族の通り道に目障りなものがあってはいけないとのことで、たとえば、たまたま掃除中で壁にモップが立てかけてあっただけで、「そんなことで皇族をお迎え出来ると思っているのか!」と怒鳴られるわけです。たぶん、あの人達にとっては、天皇はいまだに神様で、その方にお仕えする自分達もすごく偉いと勘違いしちゃってるんですね、きっと。

 

よく地震や水害などの被災地を天皇が訪問すると、地元の人達がありがたがって元気が出るみたいなニュースがありますが、実際に受け入れる自治体の担当者にとっては、正直なところ「こんな時に勘弁してくれよ」って感じではないかと思います。

 

 まあ、なにはともあれ、来年は災害がない良い年になるといいですね。

 

元号がすごく不合理な件

先月、引っ越しをしたのですが、荷物の移動と同じくらい大変だったのが、その前後の諸手続きです。

賃貸契約や保証会社の契約にはじまり、免許証の住所変更、役所、銀行、証券会社、保険会社などなど・・・。

たぶん数十枚の書類に記入したと思います。

 

その時に、あらためて気になったのが、日にちの表記です。

役所関係は、ほぼ100%元号で記入するようになっていますが、民間企業はまちまちです。

「和暦」と「西暦」が選択できるフォームもあったし、同じ会社なのに、書類によって元号だったり西暦だったりすることもありました。

 

通常、私たちが使う時間の単位は、「秒」から始まって、「分」、「時間」、「日」、「月」、そして「年」です。単位というのは、基本的に世界共通で普遍的であるべきなのに、なぜか日本の元号だけは、天皇という1人の人間の死去、あるいは退位によって、ある日、突然変わってしまうという、おかしな現象が起こります。

 

君主が変わった時に改元する「一世一元の制」は、過去、東アジアの国々で見られましたが、いま、この制度を取っているのは、私が知る限り、日本だけです。

台湾にも元号はありますが、中華民国建国の1912年を起点にカウントして「民国○○年」としているので、元号が変わることはありません。

 

西暦も、もともとはキリスト教に基づく単位なので、それが普遍的といえるかと言えば、微妙なところですが、とりあえず、デファクトスタンダードとなっているのは、間違いありません。

 

「昭和の時代は、いろいろあったね~」みたいな文脈で、ノスタルジーに浸るぶんには、元号も悪くない気がしますが、「継続性がない」という点で時間の単位としては、やっぱり不便です。

 

例えば、役所関係は前述の通り元号固執しているので、「平成32年までに○○する」みたいな文書が山ほどあるはずですが、来年の改元が決まっているので、「平成32年」は永久に巡って来ないわけで、それ以降は全て新しい元号に読み替えなくてはいけません。

過去の話をする時も、「平成○○年は何年前?」と考えるよりも、西暦の方が計算がはるかに簡単ですよね。

 

それ以外にも、「海外で通用せず外国人には難解」、「ITにおける処理が面倒」など、あまりにもドメスティックで、「いまどき、それってどうよ」という感じです

グローバル化が進み、社内の共通語を英語にしているような企業では、さすがに西暦を使っていると思いますが、愛国心に燃える日本のお役人達にも、ぜひ一考していただきたいものです。

大坂報道に見るマスコミのご都合主義について

最近、ネット上でよく話題になるのが、テレビで「日本礼賛番組」がすごく増えているということ。

実際、「日本のここが素晴らしい」、「世界中がビックリする日本」みたいなテーマで盛り上げようという趣向の番組は多いですね。

美しい国 日本」をスローガンとする安倍政権への忖度ではないかと思うほどです。

 

日本人の技術者や職人さんが出てきて素晴らしいワザを披露したり、「快適な日本の生活を捨てて、海外の僻地でこんなに頑張っている日本人がいる」なんていうストーリーが紹介されると、とりあえず面白いし、私もついつい見てしまいます。

 

いわゆるネトウヨの方々も、こういった番組を見ながら、「うん、日本はやっぱりスゴイよね。それに比べてあの辺の国々は・・・」などと溜飲を下げているのでしょう。

 

だけど、当然ながら、「すごい人がいるからその国全体が素晴らしい」ということにはならないし、どこの国にもダメダメな人はいるものです。もちろん日本にもたくさんいます。(私もその一人かもしれませんが・・・)

 

ダメ人間がたくさんいたとしても、中国なんかは、優秀な人トップ10%を集めただけでも日本の全人口に匹敵するわけですし、逆に人口が少なく、国内市場が限られている韓国では、高等教育を受けたの若い人達の「グローバル志向」は日本の若者の比ではありません。

日本礼賛に酔っている間に、世界市場でこれらの国々に追い抜かされつつあるという事実は認識する必要があると思います。

 

また、なにをもって「素晴らしい」というのかも、一概には言えません。

戦後日本の経済成長は、確かに奇跡的ではありましたが、それは、多くの労働者が社畜化することで実現されたものとも言えますし、たとえば、数分の遅れも許されない鉄道運行は、鉄道関係者のとてつもないストレスによってもたらされているわけです。

 

潔癖すぎる国民性や、すぐ群れたがる集団心理と同調圧力は、国内市場が伸びている時にはプラス要因でしたが、結局、日本人をガラパゴス化させる一因となりました。

今は、そういう社会から距離を置きたいと感じている人達もたくさんいると思います。

 

報道番組やワイドショーでは、メインキャスターがいて、そのほかに、コメンテーターと称する人達が出てくるのが、よくあるパターンです。

コメンテーターには、元スポーツ選手などの著名人や、「知識人」(笑)などが招かれることが多いようですが、ほとんどの場合、取り上げられるニュースに関しては門外漢なので、中身のない感想を述べるだけで、「なるほど・・・」と思わせられるコメントは、めったに聞くことがありません。

 

そういった番組を見ていて、気になるのは、「私たち、日本人は・・・」というフレーズをよく聞くこと。

「日本には、日本語が分かる外国人もたくさん住んでいて、その人達も番組も見ているんだ」という視点の欠如と、「日本人なら共通の価値観と感覚を共有しているはず」という勘違いが、こういう発言をさせるんだと思いますが、それを受けて「日本人は単一民族ですから・・・」などという時代錯誤なことをのたまう「コメンテーター」がいるのもビックリです。

 

そんな彼らの基準からすれば、名前こそ日本名であっても「大坂なおみ」は、日本人ではないと思うのですが、全米オープンで優勝したとたんに、「素晴らしい日本人」として、一躍「日本礼賛」の主役になってしまいました。

 

なんと言っても、大坂選手は「最強のテニスプレイヤー」だし、キャラもかわいらしいし、素敵な女性だと思います。

だけど、もし彼女がテニスプレーヤーではなく、「普通の女の子」だったら、日本の社会に受け入れられていたでしょうか。

 

肌の色が違うし、日本語もほとんど話せない。多くの日本人がなぜか罪悪視する「二重国籍」であり、彼女の両親が結婚する時は、親族から猛反対されて勘当同然だったことなどは、「不都合な真実」として、マスコミではほとんど報道されません。

 

もし、一般人として彼女が日本に住んでいたら、たぶん、疎外感に悩まされ、居心地が良いとは言えなかったのではないかと思います。

 

父親の判断で、テニスプレーヤーとしては日本人であることを選び、一応、住民票も日本にあるそうですが、彼女のアイデンティティは、恐らく「ほぼアメリカ人」でしょう。

日本では、二重国籍は許されていないので、22歳までに国籍を選択することになりますが、社会の多様性や将来性、税制面などを考えると、大坂選手が米国籍を選ぶ可能性が高いのではないかと考えます。

 

普段は極めて排他的なのに、都合が良い時だけ異質なものを受け入れて盛り上げるというマスコミの「ご都合主義」は、日本社会の縮図でしょう。

今は、外国人労働者の受け入れなど、様々な課題が出てきている時代です。

マスコミの皆さんには、もっと物事をキチンと考えていただきたいと思います。