傍流雑記帳

「本流」をはずれたら、気づいたことがたくさんあった。

外人嫌い

最近は、ブームが過ぎつつあるのか、「ウクライナからの避難民が日本で暖かく歓迎されています」というような美談に接する機会が少なくなった。

そもそも、日本の難民認定率は1%未満と、先進国の中では際立って低く、事実上、「受け入れませんから」と言っているのに等しかったはず。アフガニスタンの人々やクルド人ミャンマーロヒンギャ、民主運動家など、アジア圏からの難民申請者は訴えを認められず、入管に収容されて非人道的な扱いを受けることも少なくない。聞いたところでは、入管というのは戦前の特高警察の流れをくむ組織で、かなりの人でなし体質らしい。最近、法務省のウェブサイトに「外国人の人権を尊重しましょう」というページがあるのを見つけた時は、思わず笑ってしまった。

それだけに、今回のウクライナ人に対する厚遇ぶりには違和感を感じる人が多いようで、「欧米人優遇でアジア人は差別?」といった声も聞こえてくる。

「難民」と「避難民」の法的位置づけは違うそうで、「難民」は難民条約と入管法に基づいて受け入れが決まるのに対し、ウクライナの「避難民」たちは、政府の特例処置で緊急に受け入れられるので、とりあえず90日の短期ビザで入国して、その後、就労可能なビザに切り替えることも出来るらしい。

まあ、政府のメンツとかいろいろあって、あわててそういうことにしたんでしょう、きっと。

戦火を逃れて日本にたどり着いたウクライナ人には、ぜひ幸せになって欲しいが、実際のところ、どうだろう。最初は「親切な日本人たち」に囲まれて、ほっとするかもしれないが、数か月が経つころには、日本社会の排他性や同調圧力、底意地の悪さに気づいてゲンナリするのではないか。

とにかく、日本人の「外人嫌い」は筋金入りで、先進国でこれほど外国人の比率が少ないのは珍しい。そして、人口減による社会・経済の危機が迫っているのに、移民のイの字も議論することが許されない雰囲気なのだ。

言語教育の世界で「臨界期仮説」という言葉がある。ある程度の年齢になると、新しく外国語を学ぶことが非常に困難になるという意味で、科学的な裏付けはちょっと怪しいが、経験的には「そうだよなあ」と思わされるし、生活習慣などにも同じことが言えるかもしれない。

そういう意味では、移民の第一世代は、なにかと苦労するだろうが、その子供や孫の世代は「グローバル人材」として活躍できる可能性を秘めている。

いま、米国が世界経済で一人勝ちをしているのも、そういった人々を受け入れてきたからだろう。とにかく「出生地主義」により、「この国で生まれた人には、みんな米国籍をあげちゃいますから」という気前の良さである。

それに対して、日本人は、長い鎖国時代のせいで遺伝子レベルで内向き思考になってしまったとしか思えない。「日本人は単一民族」という勘違いに始まり、古い因習への執着、「みんなと同じ」であることを重視し「個を育てる」ことができない学校教育など、ほんとにガッカリである。

最近も、「日本語が不得意な外国籍の生徒は特別支援学校に通ってもらっています」というある自治体の話を聞き、愕然とした。

参院選も近づいてきたが、盤石な保守層に支えられ、「反ダイバーシティ」の与党が勝つのは、ほぼ確実。こうして「美しい国日本」は衰退していくのである。