傍流雑記帳

「本流」をはずれたら、気づいたことがたくさんあった。

死刑って、どう思いますか?

オウム真理教の幹部7人に対する死刑が、一斉に執行されました。

日本は死刑制度に賛成する人が約8割だそうですから、あれだけの事件を起こした首謀者たちが死刑になるのは、国民感情からして当然だと思います。

 

一方、死刑制度がない他の先進国では「これではジェノサイド(虐殺)ではないか」と報道しているメディアも多いようです。

私自身は、死刑制度に反対です。

 

理由の1つ目としては、刑罰とは言え、「人が人を殺す」ということに抵抗があるからです。

以前「休暇」という映画を観たことがあります。拘置所で、死刑執行の「支え役」をする刑務官には1週間の休暇を与えるという提案が幹部からあり、子持ちの彼女との結婚を考えている主人公の刑務官が、休暇を使ってその子供との交流を深めるため、迷った末に志願するというストーリーです。(主演が小林薫さんでなかなか良い映画でした)

そんな映画を観ると、刑を執行する人達のストレスも大変なものなのだろうと思います。

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その一方で、特殊な状況下では、そのような感情が全くなくなってしまうこともあるようです。

昨年、カンボジアのチェンスクにあるキリングフィールドを見に行ってきました。1970年代のポル・ポト政権下で多くの人達が処刑された場所です。

ほとんどの囚人は、プノンペン市街のS21収容所(今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館として見学できます)での拷問により罪状をでっち上げられたのち、ここに運ばれてきたわけですが、まったくためらうことなく多くの人々がいとも簡単に殺された跡が生々しく残っていて、とても恐ろしかったです。

もちろん、これはまともな法律が機能しない社会でのことですから、現在の日本と比較することは出来ませんが、「権力によってもたらされる死」という点は共通しています。 

 

  

2つ目の理由は、「間違いのない人間はいない」ということです。

日本では、一旦、起訴されると有罪となる可能性が極めて高いです。しかし、取り調べの可視化などはまだ十分ではなく、恣意的な捜査・取り調べが行われているケースも多々あると思います。

ついこの前も「袴田事件」が話題になりましたが、裁判官が間違った判決を下す可能性も常にあります。

そして、冤罪事件としていくら新証拠が出てきても再審が認められる可能性は非常に低いです。これは「裁判官が先輩の判決を覆すと自分が左遷されてしまうから」というのも一因となっているそうです。そんなしがらみで、殺されてしまってはたまったものではありません。

 

3つ目の理由は、死刑にもはや犯罪抑止効果がないのではないか、という点です。

たとえば、2001年の附属池田小事件や2008年の秋葉原通り魔事件などは、犯人が事前に死刑になることを想定していたと考えられ、むしろ世間を道連れに自死したいという感情を持っていたのではないかと思います。そうなると、皮肉なことに死刑が凶悪犯罪の動機になってしまったことになります。

横浜の病院での連続殺人で先日逮捕された元看護師も「死をもって償います」と淡々と語っているそうです。

 

日本では、加害者への処罰感情が強く、社会的制裁はその家族にまで及びます。

アメリカなどでは加害者家族をケアする制度もあるそうですが、日本では考えられません。個人を独立した人格と見るか、「イエ社会」の一員とみるかの違いでしょう。

 

私はフェイスブックで、ベトナム・日本の交流グループのメンバーになっているのですが、「リンちゃん殺害事件」の犯人への無期懲役の判決が話題になった時は大荒れでした。

ベトナム人の投稿は比較的冷静なものが多かったのに対し、日本人の投稿は「なぜ死刑にしないのか」と怒り心頭で訴えるものが多数派で、「法治国家なんて糞くらえ」みたいな感情的な書き込みが相次いだのには、げんなりさせられました。

そういう人達は、前述のポル・ポト時代のカンボジアのように、「法の及ばない社会」がどれだけ恐ろしいものか、考えたこともないのでしょう。

 

そんなわけで、やっぱり自分は少数派だなあ、と実感した出来事でした。